2026年 01月 30日
鳴海城
今回のテーマは「鳴海城」です。根古屋城とも言い、室町時代の応永年間(1394年~)に、安原宗範という武将によって築城されました。鳴海城が最も注目されたのは、桶狭間の戦いの時でした。当時鳴海城は今川軍の尾張侵攻における最前線で、織田信長は鳴海城の機能を封じるため、周囲に善照寺砦・丹下砦・中島砦を築いていました。
<NHK 豊臣兄弟!より>
当時鳴海城は今川の重臣岡部元信が城主で、桶狭間の戦い後も信長に抵抗しましたが、今川義元が桶狭間の戦いで討たれたため、義元の首と交換を条件に鳴海城から撤退しました。その後 織田家重臣 佐久間信盛が城主となりました。
<佐久間信盛(菅原大吉):NHK 豊臣兄弟!より>
鳴海城は現在の鳴海城跡公園の辺りにあったようですが、鳴海城跡公園には特に遺構のようなものは残っていません。
鳴海城の手がかりになるのは 鳴海城跡公園の東隣にある天神社です。ここには鳴海城跡の石碑と標札が建てられています。標札によると「尾張志には東西 75間(約135m)南北34間(約61m)で、4面に堀跡、本丸と二・三之丸にも堀があった。」と書かれています。
とはいえなかなか具体的にイメージしにくい鳴海城ですが、蓬左文庫に「愛知郡鳴海村古城図」という古文書が残っています。この絵図は江戸時代尾張藩によって作成されたものです。この絵図の本丸が現在の鳴海城跡公園付近で 東西と北側に内堀がありました。東側には二之丸があり、二之丸の東側と北側には外堀がありました。この絵図には 外堀の外側に天神社も描かれています。
<愛知郡鳴海村古城図>
これらを裏付けるため平成元年(1984年)から平成10年にかけて7度の発掘調査が行われました。但しこの地域はすでに宅地化されているため、道路の拡張工事、旧緑保健所の解体工事、下水管の埋設工事などの際に場所を限定して発掘調査が行われました。その結果堀跡の一部などが発見され、これに基づいて下記のような推定図が作られました。これらの調査結果は 名古屋市教育委員会が「埋蔵文化財調査報告書32 鳴海城跡(第1次~7次)」としてまとめています。
<鳴海城推定図:現在の地図に鳴海城発掘調査結果を重ね合わせたもの>
なお鳴海城跡公園の北側に東福院という寺院がありますが、山門に案内板が掲げられていて、山門は鳴海城の廃材を用いたと書かれています。
by haru_tsuji
| 2026-01-30 06:00
| 緑区
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