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板垣退助と後藤新平

 板垣退助は明治時代、自由民権運動を指導した政治家で、伊藤博文、大隈重信とならぶ「憲政の三巨人」の一人です。土佐藩出身で、西郷隆盛らと共に行動し、新政府では参与となり要職を歴任しましたが、征韓論を反対されたことを機に、明治6年36歳で新政府を去り、故郷の高知に戻って帝国議会の開設を求めるなど自由民権運動を活発に展開しました。明治14年に10年後の帝国議会開設が決まると、自由党を結成し、全国遊説を開始しました。

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<板垣退助像:岐阜公園>

 そんな中事件が起きました。明治15年4月6日岐阜で遊説中だった板垣が暴漢に襲われたのです。犯人は短刀を振りかざして板垣に襲い掛かりました。二人はもみあいになりましたが、回りの者が犯人を取り押さえたため、板垣は胸や手に傷をおったものの、命に別状はありませんでした。この時発した「板垣死すとも自由は死せず」という言葉が事件後有名となり、大正7年岐阜公園に板垣の銅像も建てられました。


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<板垣退助遭難の地 説明板>

 今回のテーマのもう一人、後藤新平は板垣が負傷した際治療した医師です。後藤は当時名古屋に在住していて、現在の名古屋大学医学部の前身である愛知医学校・医学病院の校長・院長を務めていました。市内中区栄一丁目の堀川沿い(トーエネック本店近く)には「名古屋大学(医学部)の源流」という碑が建っていて、後藤新平についても説明されています。

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<後藤新平>

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<名古屋大学(医学部)の源流の碑>

 市内中区の大須一丁目には後藤新平の旧宅跡もあります。板垣が襲撃された際、ここから人力車で駆け付け治療を行ったと書かれています。その後後藤は政界に転身し、台湾総督府民政長官、南満州鉄道総裁、逓信大臣、内務大臣、外務大臣、東京市市長、東京放送局(後のNHK)初代総裁なども勤めました。

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<後藤新平宅跡>

 一方板垣は、岐阜事件後も精力的に政治活動を続けていました。明治23年帝国議会開設されましたが、依然として薩長を中心とした藩閥政治が続いていました。明治31年の第6回衆議院選挙を前に板垣が率いる自由党は、大隈重信が率いる進歩党に合流して憲政党を結成し多数派となりました。これにより憲政党による日本初の政党内閣が発足し、大隈、板垣の名を取って隈板(わいはん)内閣と呼ばれました。首相は大隈に譲りましたが、板垣自身も内務大臣として入閣し、内閣を支えました。なお板垣はその功績により、昭和28年から昭和49年まで発行された百円札の肖像画としても使われました。

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by haru_tsuji | 2024-01-10 06:00 | その他 | Comments(0)