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御用水跡街園と黒川樋門

 北区を流れる黒川沿いに御用水跡街園(ごようすいあとまちえん)という遊歩道を主体とした公園が有ります。御用水というのは江戸時代の初めに初代尾張藩主徳川義直の命により開削された用水路で、庄内川から取水し、矢田川の下を水路トンネル(伏越)でくぐった後、名古屋城外堀まで続いていました。名古屋城のお堀は当初湧き水が使われていたのですが、50年程で枯渇したため、御用水が作られることになりました。御用水は水路周辺の人たちの貴重な水源としても使われました。

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<左側遊歩道が「御用水跡街園」右側に流れているのが「黒川」>

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<御用水の水路 (水の歴史資料館にて)>

 御用水の両側には松並木が作られていたそうですが、第2次世界大戦の際、航空燃料となる松根油をとるため多くが伐採されてしまったそうです。

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<御用水跡街園の説明板>

 明治9年この御用水に並行する形で黒川が開削されました。この工事を行ったのが愛知県の土木技師黒川治愿で、これにちなんで堀川の朝日橋(名古屋能楽堂付近)から上流を黒川と呼ぶようになりました。またこの時に黒川樋門(ひもん)も作られました。

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<黒川樋門>

 樋門というのはゲート付きの水路トンネルで、樋門の出口には大きな分水池(通称「天然プール」)を作り、黒川と御用水の他、庄内用水、志賀用水、上飯田用水へも分水するようにしました。ゲート付きの樋門としたのは洪水対策のためで、庄内川と矢田川に挟まれた地域は「瀬古村輪中」と呼ばれる低湿地帯で、長年洪水被害に悩まされてきたからです。通常樋門のゲートは開いた状態ですが、大雨で分水池の水位が上がった場合、大量の水が上流の瀬古村輪中に逆流しないようゲートを閉めるというしくみでした。下記写真は樋門のゲート開閉を行うためのハンドルです。黒川樋門は令和2年名古屋市の「景観重要建造物」に指定されました。

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<ゲート開閉用ハンドル>

 この樋門近くに大きな分水池(=天然プール)があった事を示す下記石碑も建てられています。

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<天然プールの碑>

 御用水は戦後水質悪化などのため埋め立てられ一部が御用水跡街園として整備され昭和49年街園としてオープンしました。また天然プールも昭和53年、近くに三階橋ポンプ所が建設されたことにより不要となったため埋め立てられました。黒川樋門も役目を終えて一旦取り壊されましたが、昭和55年に復元され現在の形になりました。

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<黒川樋門と三階橋ポンプ所>

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by haru_tsuji | 2023-07-15 06:00 | 中区・中村区・北区・東区・西区 | Comments(0)