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剣豪 宮本武蔵の就活/東光院・笠寺観音

 宮本武蔵は安土桃山時代から江戸時代にかけて活躍した剣豪で、名古屋にもその足跡を残しています。武蔵が名古屋に来たのは寛永元年(1624年)、40歳を過ぎたころで、尾張藩の兵法指南役として仕官するためだと言われています。武蔵は若いころ諸国で武者修行を行い、六十余度の真剣勝負で一度も負けたことがないと言われる程の剣豪ですが、後に「五輪書」という独自の兵法書も書いており、自身の生涯を通して築き上げてきた武道を、広く徳川の武士たちにも広めたいという野心を持っていたと思われます。

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<東光院>

 名古屋滞在中は、笠寺観音の宿坊であった東光院に逗留しました。そのため東光院には、今でも宮本武蔵の肖像画や、武蔵自作の木刀、武蔵自筆の掛け軸など武蔵ゆかりの品が残されています。(一般公開はされていないようですが・・・)

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<東光院案内板:宮本武蔵が滞在し、遺品数点が現存するとの説明>

 武蔵は尾張藩主 徳川義直の前で見事な剣さばきを披露しましたが、兵法指南役はすでに柳生一門がその職を占めていたため、仕官の夢は果たせませんでした。(一説には柳生家の俸禄が5百石で、武蔵は1千石を要求したため決裂したという話もあるようです。)武蔵は名古屋を去りましたが、武蔵の武術は尾張藩で評判になり、教えを請う者が続出したため、武蔵は養子の竹村頼角を尾張藩に推薦しました。この流派が尾張円明流で、尾張藩の主要な剣術流派のひとつになるほど盛んになりました。

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<笠寺観音の宮本武蔵の碑(新免武蔵守玄信之碑)>

 武蔵没後百年忌にあたる延享元年(1744年)竹村頼角の孫弟子左右田邦俊やその門弟により、笠寺観音内に「新免武蔵守玄信之碑」と呼ばれる顕彰碑が建てられました。なお昭和区の半僧坊新福寺には「新免政名供養碑」と呼ばれるもうひとつの武蔵ゆかりの碑も建てられています。(詳しくはまた別の機会に紹介したいと思います。)

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<笠寺観音と東光院>


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by haru_tsuji | 2023-05-25 06:00 | 南区・天白区・瑞穂区 | Comments(0)