人気ブログランキング | 話題のタグを見る

家康の母と伯父の悲運/刈谷城と椎の木屋敷

 今回のテーマは、徳川家康の母 於大(おだい)と伯父 水野信元の悲運についてです。於大の父水野忠政は、東浦の緒川城を中心として知多半島北部を支配していましたが、三河の刈谷にも進出し新城(刈谷城)を築きました。忠政は三河で勢力を誇っていた松平氏と友好を保つため、於大を松平広忠(家康の父)に嫁がせました。於大は岡崎城で家康を出産しましたが、ほどなく父忠政が病死。於大の兄水野信元が家督を継ぐと、松平氏の主君今川氏と絶縁し織田氏に従ったため、於大は松平広忠に離縁され刈谷に戻されました。

家康の母と伯父の悲運/刈谷城と椎の木屋敷_a0362603_11204568.jpg
<於大の方像:椎の木屋敷跡(刈谷市)>

 下記案内図は、於大の実家だった刈谷城(現在は亀城公園)についてで、城の南東に「椎(しい)の木屋敷跡」という史跡があります。椎の木屋敷は離縁されて実家に戻った於大が住んだとされる場所です。椎の木屋敷跡には於大の像や由緒が書かれた石碑などが建てられています。

家康の母と伯父の悲運/刈谷城と椎の木屋敷_a0362603_14322521.jpg

家康の母と伯父の悲運/刈谷城と椎の木屋敷_a0362603_13442164.jpg
<椎の木屋敷跡の由来が書かれた石碑>

 於大の兄水野信元は、桶狭間の戦いの際大高城にいた甥の家康が三河に落ち延びるのを助けました。(三河物語に逸話が書かれています。)また後に信長と家康が清須同盟を結ぶ際も仲介役となるなど、家康の三河平定後も家康に対し強い影響力を持っていました。ところが1576年悲劇がおこりました。信長の家臣佐久間信盛の密告で、武田氏と内通したとの疑いをかけられ、信長の命で家康により信元は殺害され領地も没収されてしまったのです。後に冤罪だったことが判明し、領地は信元の末弟・忠重に返還されましたが、水野氏一族にとって存亡の危機だったのです。

家康の母と伯父の悲運/刈谷城と椎の木屋敷_a0362603_10310741.jpg
<水野信元の墓:楞厳寺(りょうごんじ)刈谷市>

 江戸時代になると幕府による領地替えが盛んに行われ、水野氏は刈谷を離れました。刈谷城も頻繁に城主が変わりましたが、明治の廃藩置県で刈谷藩が廃止され城も取り壊されました。現在は亀城公園として整備され、園内に刈谷城跡の石碑が建っています。また刈谷城再生の計画もあるようです。また公園北には「刈谷市歴史博物館」も建てられていて、刈谷城や水野氏の歴史を伝えています。

家康の母と伯父の悲運/刈谷城と椎の木屋敷_a0362603_15025790.jpg
<刈谷城址の石碑*亀城公園>

家康の母と伯父の悲運/刈谷城と椎の木屋敷_a0362603_10524106.jpg
<刈谷市歴史博物館>


家康の母と伯父の悲運/刈谷城と椎の木屋敷_a0362603_15050341.jpg
<刈谷市の亀城公園再整備計画>

 なお江戸時代の秀忠・家光時代に老中・大老として活躍した土井利勝は、水野信元の子で、信元死去の際に家康の計らいで土井家へ養子に入ったと言われています。また老中として天保の改革を行った水野忠邦も水野信元の弟忠守の末裔です。




名前
URL
削除用パスワード
by haru_tsuji | 2023-01-20 06:00 | 愛知県内(その他) | Comments(0)