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熱田にあった二つの御殿

 熱田の七里の渡し公園に「熱田湊の風景」という歴史パネルが建てられています。江戸時代熱田湊は水上交通の要衝として、名古屋の経済発展に大きな役割を果たしたことが書かれていますが、かつてこの地にあった東浜御殿についても説明されています。

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 下記写真で鳥居の堀を隔てて左側に描かれている場所が東浜御殿で、江戸時代初期(1624年)建てられました。

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 東浜御殿は、尾張藩初代藩主徳川義直が造営したとされ、敷地面積は1万平方メートル以上で、名古屋城の本丸御殿に匹敵する荘厳な御殿だったと言われています。七里の渡しの東側の海を埋め立てて出島を作り、そこに御殿が造営されました。この施設は将軍や徳川一門を接待するためのもので、3代将軍徳川家光が上洛の際宿泊した記録も残っています。

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<写真右が徳川政史研究所で発見された東浜御殿の間取り図>


 御殿の内部を示す資料が乏しかったため、東浜御殿は長い間謎に包まれていましたが、2018年東京の徳川政史研究所で間取り図が発見され、内部の様子が少しづつ解明されてきました。地元団体の「熱田湊まちづくり協議会」はこの資料を基に東浜御殿の3Ⅾイメージを作成して公開しています。

東浜御殿リンク

 江戸末期には藩の財政難により東浜御殿は衰退し、調練施設となり、明治4年明治新政府によって取り壊されました。中日新聞は昭和48年1月12日に熱田区内田町の市道でガス管工事の際に「直径1m前後の角ばった大きな石8個と松のクイ棒10本が見つかった。」と報じました。現在この遺構は行方不明で検証できませんが、東浜御殿の石垣だった可能性が高く、御殿や堀の遺構が内田町付近に埋まっていると推測されています。

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<東浜御殿があったと推定される場所>


 なお七里の渡し公園の北、白鳥コミュニティーセンター北側には、下記のような「西浜御殿跡」の標札も建っています。西浜御殿は東浜御殿より少し格式は落ちますが、幕府の高官、公家、大名などが利用した施設でした。

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by haru_tsuji | 2022-12-05 06:00 | 熱田区・昭和区 | Comments(0)