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横須賀御殿跡/東海市

 東海市の南部にある横須賀町に、かつて横須賀御殿(臨江亭)と呼ばれる尾張藩の屋敷がありました。尾張二代目藩主徳川光友が湯治のため作った別宅で、東西200m南北140mという巨大な敷地内に御殿群が作られ、その北300m四方に御洲浜(おすはま)と呼ばれる回遊式庭園がありました。この庭園は修学院離宮を模したもので、名古屋城にあった御深井の庭以上のスケールだったとも言われています。

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<横須賀御殿の碑:明治28年に建てられた碑で、かつてこの場所に横須賀御殿があったことが書かれています。>

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<写真上:横須賀御殿復元図 写真下:尾張名所図会に描かれた横須賀町方>

 古来このあたりは馬走瀬(まはせ)と呼ばれる海辺の集落でしたが、御殿が作られるのに合わせ、碁盤割の街並みも整備され、横須賀と呼ばれるようになりました。横須賀御殿は、徳川光友が亡くなった後、1715年の嵐で建物が大破したため、御亭(おちん)と呼ばれる海を臨む建物以外は取り壊されました。御亭は江戸時代を通して残され、藩主の宿泊・休憩所として使われました。また1785年には御殿敷地後に知多郡の西浦一帯73ヶ村を統治するため、横須賀代官所が建てられました。

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 回遊式庭園があった御洲浜は、現在でも横須賀町御洲浜という地名で残っていて、下記地図に示す場所には「御洲浜の池」という池も残っています。ただ今は荒れ果てていて昔の面影は全くありませんが、池の北側に由来が書かれた看板が建てられていて、その看板には、「この場所は万葉集で「可家の湊(かけのみなと)として詠われた風光明媚な場所で、昔は入江でしたが次第に埋め立てられて池になり、徳川光友の時代に、この池を中心として回遊庭園が作られた。」と説明されています。

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<下赤枠:横須賀御殿の想定範囲、上赤枠:御洲浜の池想定範囲>



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<可家の湊跡(御洲浜の池)説明板>

 
 なお横須賀御殿の碑があるのは、公家緑道という緑地で、市民体育館・勤労センターのすぐ東側です。

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by haru_tsuji | 2022-09-30 06:00 | 東海・大府・豊明・東郷・日進 | Comments(0)