2021年 12月 10日
名古屋のど真ん中にあった広大な尾張藩別宅/御下屋敷跡
かつて名古屋の都心部には、御下屋敷(おしもやしき)と呼ばれる尾張藩の別宅がありました。延宝7年(1679)尾張藩二代目藩主 徳川光友により作られ、東西約300m南北約700mほどの広大な屋敷でした。敷地の中央部に御殿があり、南と北には広大な回遊式庭園が造られていました。下記地図の緑で囲まれた部分が御下屋敷で、赤丸で示された地点(地下鉄新栄町駅1番出口近く)に歴史看板が建てられています。
<御下屋敷絵図>
御下屋敷は広大だったので、別の場所にも標札が建てられています。現在の東区生涯学習センター前には、下記のような「御下屋敷跡」の標札が建っています。この辺りは御下屋敷の御殿が建っていた場所で、8代将軍徳川吉宗と対立し蟄居謹慎を受けた尾張7代藩主徳川宗春が晩年を過ごした場所でもあります。
御下屋敷の北側の、無量寿院というお寺にも標札が建っています。無量寿院は一見民家のような建物ですが、徳川宗春が亡くなった後、菩提を弔うため尾張藩戸山屋敷(現東京新宿区)から現在の場所に移築されたお寺で、宗春の位牌が祀られています。無量寿院近くには「御薬園」という薬草園も作られ、朝鮮人参を栽培するため御人参畑も作られていたようです。
最初に戻って新栄町駅付近に建てられた歴史看板の全体図が下記写真です。明治になって周囲に民家や工場が建ち始めた明治中頃になっても御下屋敷の南半分は官有地のままでしたが、明治27年葵町地主総代らが愛知県知事に願い出て民有地となりました。当時のこのあたりは、下記写真のように田畑や養蜂園が作られるなど自然豊かな場所だったようですが、次第に開発が進み現在の名古屋都心部へと発展していきました。
by haru_tsuji
| 2021-12-10 06:00
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