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木曽三川分流の巨大プロジェクト/デ・レーケと船頭平河川公園

 濃尾平野を流れ、伊勢湾にそそぐ木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)は、明治まで下流付近で複雑に合流し、三川に挟また地域は輪中と呼ばれる堤防で周囲を囲まれた小さな集落に分断され、大雨が降るとしばしば堤防が決壊して、大きな被害を受けていました。

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 洪水を防ぐため木曽三川分流は、この地域永年の悲願でした。江戸時代にも、徳川幕府は九州の薩摩藩に大規模な治水工事を命じました。これを宝暦治水と言い、費用は40万両(現在の貨幣に換算すると300億円以上)80人以上の犠牲者を出すという大工事で、堰などを建設しました。この工事は一定の成果を上げたものの、堰の建設により土砂が川底に堆積し、かえって上流での洪水が増えたり、輪中の悪水排出が困難になるなど新たな問題も発生しました。

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<江戸時代の木曽三川と輪中>

 明治になって、愛知・岐阜・三重の三県は一体で、新政府に対し、西洋の最新土木技術導入による新たな木曽三川の治水工事の実施を求めました。新政府は明治6年、土木の最先端技術を持つオランダから専門家ヨハネス・デ・レーケを招聘しました。デ・レーケは明治11年流域調査を実施。明治19年木曽三川の完全分流により、洪水防止と、堤防内の排水改良、船の水路を改良などを盛り込んだ計画書を立案。明治20年には世紀の大プロジェクトがスタートしました。

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<明治時代の木曽三川の改修計画>

 デ・レーケは心血を注いで難工事を進め、10年以上の年月をかけて三川分流は明治33年一応の完成をみました。デ・レーケは木曽三川以外の治水工事にも携わり、明治36年オランダに帰国。日本滞在は実に30年にもおよびました。帰国にあたり明治政府は勲二等瑞宝章を贈り、現在の価格にして4億円もの退職金が払われました。

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<ヨハネス・デ・レーケの銅像>

 現在木曽三川公園のひとつ「船頭平河川公園」にはデ・レーケの功績を顕彰するため銅像が建てられています。またこの公園内には、治水工事で作られた木曽川と長良川をつなぐ船頭平閘門も残っています。この閘門は船が通過する時だけ開く構造で、現在でも稼働しており、重要文化財にも指定されています。
 
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<船頭平閘門>

 またこの公園内には「木曽川文庫」という国土交通省の施設もあって、木曽三川の分流工事に関連した貴重な資料が展示されています。

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<木曽川文庫>



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by haru_tsuji | 2021-12-05 06:00 | 愛知県内(その他) | Comments(0)