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名古屋市長になった大高の殿様/志水忠平

大高城は桶狭間の戦いで、徳川家康が兵糧入れを行った城として有名ですが、徳川家康が大高城を去ってからはそのまま放置され廃城となっていました。江戸時代になり徳川義直が尾張藩主になると、義直は母方の親戚筋にあたる志水氏に大高1万石を与えました。大高の領主となった志水忠宗は1616年大高城跡に屋敷を設け、以後志水家は家老として明治2年の版籍奉還まで16代にわたり尾張藩を支えました。16代目の志水家当主が後に名古屋市長になった志水忠平です。

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<大高城跡のパネルには志水家のことも書かれています。>


忠平は13才で家督を継ぎ、志水家代々の役職である知多の海岸警備を行っていました。幕末のころ尾張藩は徳川宗家(江戸幕府)を守ろうとする佐幕派が、幼少の藩主を擁立して新政府軍と戦おうという動きがありました。尾張藩の実権を握っていたのは、前藩主徳川慶勝でしたが、京都の政局に奔走していていたため、家老の成瀬正肥(犬山城主)などが中心となり佐幕派を抑えていました。1868年鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗北した後起こったのが以前紹介した「青松葉事件」で、佐幕派14名が処刑され、これを境に尾張藩は徳川宗家とは完全に袂を分かちました。この時忠平は18才。家老職に就任しており、尾張藩の次世代をになう若手のホープでした。


明治になり尾張藩は、慶勝の子徳川義宣に継承されましたが、義宣は年若く病弱でもあったため、自分で政務をとることはほとんどありませんでした。(義宣は明治8年わずか18才でなくなってしまいます。)また家老で尾張藩をリードしてきた犬山城主 成瀬正肥も大政奉還後に発足した犬山藩の藩主となり尾張藩から独立してしまいます。そんな中、尾張藩を支えたのが志水忠平でした。忠平は明治の始め尾張藩から名称を変えた名古屋藩の大参事(副知事)に就任し、精力的に政務にあたるようになります。

廃藩置県で藩が廃止されるとそれまで士族に与えられていた俸禄が廃止になりましたが、その代償として政府から与えられた「金禄公債」という債権を原資として、忠平は名古屋の豪商岡谷惣助らとともに明治11年名古屋に百三十四銀行を設立します。また尾張徳川家が東京に転居してしまったため、存続することが困難になっていた尾張徳川家ゆかりの名古屋東照宮(徳川家康を顕彰する神社)を県社として再興も行いました。

更に忠平は明治23年第2代名古屋市長に就任することになりますが、少し話が長くなるのでこの続きは次回のブログで紹介することと致します。

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<名古屋東照宮(中区丸の内):もともと名古屋城三の丸にありましたが、名古屋城が陸軍に接収されたため、忠平によって現在地に再興されました。再興当時本殿は国宝に指定されていたそうです。太平洋戦争ですべて焼失してしまい現在の本殿は戦後建中寺から移築した建物です。>

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by haru_tsuji | 2021-06-20 06:00 | 緑区 | Comments(0)