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幕末名古屋の大事件:青松葉事件とは?/名古屋城

NHK大河ドラマ「青天を衝け」は、いよいよ渋沢栄一が徳川慶喜の家臣となり、幕末の動乱期を生き抜く「一橋家臣編」がスタートします。幕末というと、薩長や江戸幕府を中心に描かれることが多いのですが、意外に知られていないのは、その頃名古屋はどのような状態だったのかということです。実はその謎を解く鍵が名古屋城内に今も残されていますので、今回紹介したいと思います。


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<青松葉事件の遺跡碑>


名古屋城内にひっそりと残されているのが「青松葉事件の遺跡」という石碑です。名古屋城の紹介パンフレットや案内図にも載っていないので、ご存知の方は少ないのではないかと思います。石碑が建っているのは、下記写真の場所で、東門の近くにある売店の裏あたりにあります。


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青松葉事件というのは、隠居ながら尾張藩の実質的な権力を握っていた徳川慶勝(よしかつ)が、徳川家を守ろうとする勢力(佐幕派)の14人を処刑、更に20人を謹慎処分にした事件です。事件は明治が始まる直前の慶応4年に起きました。処刑された14人のリーダで尾張藩の重臣だった渡辺新佐衛門の異名が「青松葉」だったため「青松葉事件」と呼ばれました。


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渡辺たちは当時11才だった藩主徳川義直(よしなお)を擁立して関東に下り、旧幕府とともに新政府軍と戦おうとしていたのです。これをやめさせたのが徳川慶勝でした。ところで、御三家の筆頭だった尾張藩が、徳川家を守るために戦うというのは、自然に見えますが何故慶勝は、新政府軍に加担したのでしょうか?これを解く鍵も、同じ名古屋城内に残されています。


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<藩訓秘伝の碑>


青松葉事件の遺跡碑の近くに、もう一つ「藩訓秘伝の碑」という石碑が建っています。この石碑には、初代尾張藩主徳川義直(よしなお)が定めた藩訓の第1項「王命に依って催さるる事」と書かれています。簡単に言えば「天皇の命令には絶対服従」が尾張藩の大原則だった訳です。鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が新政府軍に敗れ、天皇から新政府軍に逆らう者は殺しても構わない(姦徒誅戮)という勅命が発せられた以上、新政府軍支持に回らざるを得ないというのが、慶勝の考えでした。佐幕派として会津藩を率いた弟の松平容保(かたもり)とは真逆の考え方でした。なお青松葉事件は、佐幕派以外の処罰者も含まれていたことから、藩内の権力闘争という見方もあります。いずれにしても幕末の尾張藩は必ずしも一枚岩ではなかったというのが真相のようです。

慶勝は新政府の高官(議定)となり、徳川慶喜や松平容保の助命活動に奔走しました。その後名古屋藩知事などを務め、第一線を退いた後は東京の本所に移り住みました。東京では写真家として貴重な作品をたくさん残したとのことです。




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by haru_tsuji | 2021-05-10 06:00 | 中区・中村区・北区・東区 | Comments(0)