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緑区は焼き物の町だった!(その2)

前回ご説明したように、愛知用水建設工事で遺跡が発見された後、周辺でも同様の遺跡が続々と発見されました。これが猿投窯(正式には猿投山西南麓古窯址群)で、当初はその重要性が分かりませんでしたが、名古屋大学考古学研究室などによる調査・研究が進められ、これらの遺跡群が奈良・平安時代(8~11世紀)の焼き物の歴史上、大変重要な位置づけにあるということが分かり、後に日本三大古窯のひとつに数えられるれるようになりました。

猿投窯は現在まで1000箇所以上の窯跡が見つかっていて、東山、岩崎、折戸、黒笹、鳴海、井ヶ谷、瀬戸の7地区に分布しています。猿投窯という名前は名古屋大学の澄田教授により命名されましたが、古窯群の中心地は、東郷・みよし辺りで、鳴海地区にも多く分布しています。猿投窯というと、緑区から遠く離れた遺跡のような感じなので緑区民としてはちょっと残念な名前だと感じます。

さて猿投窯の特長ですが、当時の陶器はまだ釉薬(うわぐすり)をかけるという技術が無く、朝鮮半島から伝えれた須恵器という焼き物が主流でした。猿投窯の時代になると、陶芸の技術が飛躍的に進歩し、人工的に釉薬をかける灰釉陶器(釉薬の原料は植物の灰)や緑釉陶器(釉薬の原料は鉛銅)が初めて国産化されました。特に緑釉陶器が生まれたのは、鳴海地区が最初だと言われています。

当時、灰釉陶器は白瓷(しらじ)、緑釉陶器は青瓷(あおじ)と呼ばれ、装飾品や貴族などの食器用として使われました。なぜこのような陶器が作ることができるようになったかというと、焼き窯の進歩がありました。それまでは野焼きで温度が上がらなかったのに対し、窯(あながま)という技術が中国からもたらされ、釉薬が溶ける1000℃近い高温で燃焼させることが可能になったためです。

今回は猿投窯の概要について説明しましたが、次回はいよいよ緑区で見つかった猿投窯を紹介していきたいと思います。ご期待下さい。




下記写真は愛知県陶磁美術館の駐車場造成工事の際発見された焼窯の跡です。:南山9号窯跡と言い、A~Dの4つの窯跡がありますが、D号窯がこの地区では最も古い猿投窯(平安時代後期、11世紀)です。

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瀬戸窯と常滑窯の中間地域にあったのが猿投窯で、歴史的には、猿投窯から瀬戸窯、常滑窯へと発展していきました。


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<名古屋市博物館の資料より>



猿投窯は猿投山の南西地域に広がる古代焼き物の窯跡群の総称です。下記写真の黄色い点で示したものが窯跡で、鳴海地区からも多くの遺跡が見つかっています。


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                 <愛知陶磁美術館の資料より>



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by haru_tsuji | 2020-10-01 08:00 | 緑区 | Comments(0)