人気ブログランキング | 話題のタグを見る

雉本朗造博士銅像/浦里公園

鳴海プール横の浦里公園にひときわ大きな銅像があります。銅像の主は「雉本朗造(きじもとときぞう)」。大正時代、地元の貧しい農民のために尽力した郷土の偉人です。雉本朗造(明治9年生まれ)は南区鳴尾の出身で、愛知県尋常中学校(旭丘高校の前身)を経て東京帝国大学に進学し法学を学びました。ドイツ留学後、京都帝国大学の教授となり、民事訴訟法の研究と教育に尽力しました。

大正6年「鳴海小作争議」という事件が起こりました。当時の小作人たちは工場労働者の5分の1程度の収入しかなく、貧困に苦しんでいました。小作人たちは掟米(おきてまい)と呼ばれる小作料の引き下げを地主たちに要求し争いになりました。小作人の中には全く掟米を払わない者も現れ、強硬地主たちは小作人たちを裁判所に訴えました。そこへ小作人支援のために登場したのが雉本朗造で、当時民事訴訟法の権威だった雉本が小作人たちの権利を守るため自ら法廷指揮をとるという前代未聞の展開となりました。

法廷闘争が進む中、雉本は突然非業の死を遂げます。大正11年3月、旅行中だった船上から突然姿を消し、数日後海岸に遺体が漂着しているのが発見されます。死因については、自殺、事故、他殺とさまざまな憶測が流れましたが、結局はっきりした原因はわかりませんでした。その後争議は地主と小作人との和解ということになりますが、小作人たちは従来より有利な成果と権利を手に入れることができました。小作人たちは雉本の恩義に報いるため寄付金などをつのって制作したのが、現在浦里公園に建っているこの銅像です。



雉本朗造博士銅像/浦里公園_a0362603_19282830.jpg


銅像の後ろに建てられている石碑には、この銅像が建てられた経緯が刻まれています。

雉本朗造博士銅像/浦里公園_a0362603_19231795.jpg


もう一つの石碑は、この銅像を建てるために尽力した人たちの名前が刻まれています。

雉本朗造博士銅像/浦里公園_a0362603_19325252.jpg

天白川の堤防から見た天白公園:銅像の後ろの建物が鳴海プールです。

雉本朗造博士銅像/浦里公園_a0362603_19143518.jpg

なおこの銅像は昭和5年、前之輪近くの石堀山へ建てられ、戦後(昭和48年)現在の場所に移転されました。太平洋戦争では、物資不足のため多くの銅像が兵器製造のため供出されましたが、この銅像は幸運にも供出を免れた奇跡の銅像でもあります。




名前
URL
削除用パスワード
by haru_tsuji | 2019-12-14 10:43 | 緑区 | Comments(0)